学習指導論

目次

※ 始めに

・第1章 協調と個別化
① 協調から個別化へ
② 協調主義的学習指導の弊害
③ 学習塾の功と罪

・第2章 これからの学習指導
① 個人別カリキュラムの薦め
② 学習コーディネーターの薦め
③ プチ・エリート教育
④ 学習とは何か

付録空想 未来の学校

※ 始めに

教育改革が世の注目を浴びて久しく、長期に渡る改革は遂に「ゆとり教育」なる虚構に至り、果てに夢破れ、「やっぱり元に戻そう」という結果に終わったようです。
80年代・90年代と国民的盛り上がりを見せた教育改革は、振り出しに戻ってしまったのでしょうか。
いや、平成12年の「教育改革国民会議報告-教育を変える17の提案-」には、後に拙稿で採り上げる、現実に即した注目すべきものがあり、長きに渡る改革論議が全くの不毛ではなかったと救われる思いがします。
しかし、問題の根本原因を突き止めない限り、今後とも新たに起こる様々な現象に振り回されることは必至でしょう。
日本の教育は何をどう改革すべきなのか。わけても学習指導は…。
日本の社会を支える子供たちへの学習指導は、近代黎明期のように、優秀な子供を選抜し、英才教育を施すことではありません。全員を俗にいう有名校を目指し勉強させることでもないはずです。
多彩な個性を内在している子供に対し、各自の能力をできる限り活性化させること以外に指導の目的はありえません。
薔薇はバラらしく、菊はキクらしく咲かせることが肝要で、他品種と大きさを競わせるような、一方的な価値基準で評価することなどおよそ教育とはいえないのです。
この活性化の障害となるものを取り除く、これが改革の原点ではないでしょうか。
私は「受験地獄」「落ちこぼれ」などの俗語が示す子供を苦しめ保護者を不安がらせる様々な現象は、ある一つの原因により引き起こされていると考えます。
以下、拙稿ではその根本的原因を明かにし、対応策を検討できればと思います。

第1章 協調と個別化

① 協調から 個別化へ

右の図は、初等教育から高等教育(注1)までの基本的教育理念を専門家が図式化したものです。
初等では家族的原理として参加・社会化・励起・統合、即ち協調と依存に重点が置かれています。
それに対し、中等教育から高等教育に行くに従って、実社会的原理として、能力・選別・冷却

・分化、即ち個性と自立に重点が置かれていきます。
以下、前者の家族的原理の理念を総称して協調、後者の実社会的原理の理念を総称して個別化と呼ぶことにします。
「協調」と「個別化」、これらをキーワードとして論を進めていきます。

(注1)
・初等教育=小学校による教育 ・中等教育=中学 高校による教育
・高等教育=大学・大学院・高等専門学校による教育

協調、個別化を平たく云うと、小学校では「みんな仲良く一緒」であることに価値を見出し、高校からは「学力・技量重視」即ち、他人より秀でることに評価を与えるという指導です。そのため、小学校では「夢を持とう。夢は必ず叶う」でよかったのですが、高校からは学力により自己認識を迫られるのです。この理想から現実へのギャップを均すのが、先の図の「励起」→「冷却」という概念と理解しています。

それでは、なぜ様々な矛盾が起こるのでしょうか。
それは、協調性を重視してきた初等教育の段階において、個別化への意識が時代とともに早まってきたことに問題は始まります。
戦後、家業を継ぐ若者の減少、都市人口の増大などが徐々に教育熱を高め、ついにこのような現象を起こしたのでしょう。
即ち、誰しもが競争社会の中に身を投じ、より高いスキルを求める時代になったのです。
こうした向学心の高まりは成熟した社会に起こる現象であり、社会を支える原動力として好ましいことのはずです。
ところが、教育の専門機関がこれに対応しきれなかった。そのため様々な混乱が生じてきたのです。
学校の仕事は、学習指導と生活指導に分かれますが、そもそも協調性は生活指導用語であり、学習指導にどこまで馴染むものなのでしょうか。
年功序列社会の申し子である同学年一律授業、即ち、同年齢をひと束に、同じ学習内容を同じ時間内に理解させようとする協調主義的学習指導から脱却できなかったのです。
先に述べた「教育改革国民会議報告-教育を変える17の提案-」の、

・一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する 
・授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする
・生活集団と学習集団を区別し、教科によっては少人数や習熟度別学級編成を行う。

という提案や提言は、こうした事情に漸く気付き始めたことの表れなのでしょう。
これに基づき、公立中学でも習熟度別学級編成を実施しているところが増えてきたようですが、現実の学力差は中学生を2・3クラスに分けた程度では焼け石に水なのです。相変わらず学年一律の教科書に頼っているようでは本来の習熟度別学級編成の意味はなく、同学年一律授業と変わることはありません。

② 協調主義的学習指導の弊害

具体的に、同学年一律授業の弊害例を挙げましょう。

その1

そもそも、同年代の子供が一律に教科書を理解することなど不可能な話です。
しかし、協調重視の下では、誰しもが学年相応の学力を身につけ進級していくかのように繕わなければなりません。
特に協調性を重視する小学校では、学力の差が表面化しないよう配慮がなされてきたのです。
私はかつて小学校で行われた単元テストを見て驚いたことがあります。算数の「足し算」のテストには、「足し算」とタイトルが大きく書かれ、前半の計算問題と後半の文章問題から構成されているのです。そして、どの文章問題も文中の数を足せば答えが出るのです。これは、加減乗除全ての場合同様です。これでは文章など読む必要はない。
足し算がわかるということは、引き算や掛け算との区別ができるということではないでしょうか。しかし、テストのタイトルに掲げられた「足し算」の文字が文章を読む意味を奪っているのです。

結果、ほとんどの子供たちは好成績を修め、理解していない子も「できた」つもりになってしまいます。そして、いずれ然るべき学年でバブルが弾けるように文章問題がわかっていないことを悟るのです。これが協調重視の実態です。

その2

悲劇はここから始まるのです。保護者も我が子の正確な学力がわからず、そのため子への期待が過度になることがあります。
「ご近所のお兄ちゃんが有名校に合格したのだからうちの子にだって」という安易な発想を起こしてしまうのです。
「みんな一緒」で差がないと信じる保護者が「今から勉強させればうちの子も有名校に」という願望を抱くことはとてもよく理解できます。
こうした保護者の多くは本来子が必要とする勉強を与えず、消化できない勉強を背負わせてしまいがちです。多くの場合、進学塾に入れ、有名校に合格した人の修めたテキストをやらせるというものです。

こうした勉強は、本人の学力に適合していれば問題ないのですが、不適合の場合がはるかに多いのです。
いかなる進学塾も有名校といわれる私立中学の合格者数より、合格レベルに及ばなかった生徒数の方が圧倒的に多いことを忘れてはいけません。
「たとえ、第一志望に入れなくても、夢は高いほど高い学力が身につくはずだ。最初から妥協することはない」とお考えの保護者は多いことでしょう。しかし、現実は逆なのです。
夢が現実的でない場合、進学塾などの学習プランに適応できず、消化不良を起こし、学力はいつまで経ってもつかないのです。それどころか自分のすべき勉強を見失い、「努力だ!がんばれ!」の精神論に耐えられず、ついには無気力な子供になってしまうこともあります。

平均的な体格の若者が、トップアスリートの練習メニューにチャレンジすれば、3日もあれば体を壊してしまうのと同じです。
自分の歩幅に適った進み方をして初めて学力は身につくのです。その方がはるかに勉強が面白く、高い地点に到達できるのです。最初から高い地点に行きつくことを使命とすれば、歩幅が大きくなり、すぐに足が前に出なくなり、置いてきぼりとなってしまいます。
適正な歩幅を見つけ、その中で努力し長く歩み続けることこそ、能力の活性化につながるのです。
私は無理な勉強を強いる保護者を批判するつもりは毛頭ありません。なぜなら、自分の子の適切な学習内容を見失わせたのは協調主義的教育機関と言葉巧みな進学塾なのですから。
むしろ保護者は被害者なのです。

その3

さらに悲劇は続きます。
今も昔も、学校の宿題は全員一律に出されるのが通例のようです。これも協調重視に基づくものでしょう。
一定の宿題に対して子供は次の3つのタイプに分かれます。

①簡単すぎて学力向上につながらない子供。
②宿題のレベルがちょうど学習するに相応しい子供。
③自力では全く解けない子供。

①の子にとって宿題は時間の無駄に過ぎません。もっと高度な勉強を与えるべきです。
②の子を想定しての宿題なのでしょうが、実際にはこのような子はわずかな割合にしか過ぎません。5年生だから宿題は5年のドリルと図式的に決めるのは指導者の都合にしか過ぎないのです。
最も深刻なのは③の子供です。
③の子には前学年のレベルから丁寧に指導すべきです。
③の子は宿題を親にやってもらうか、友達に写させてもらうか、いいかげんにやるか、答えを見てやったふりをするか、「忘れました」と開き直るか、要するに、ごまかす他に術はないのです。
これでは、学力どころか、悪しき習慣を身につけてしまいます。
このような習慣を義務教育の9年間、もしくは高卒までの12年間繰り返すとするならば、宿題をやらない方が教育上良いでしょう。夏休みの宿題などは悲惨で、折角学校の無い間に、過去の勉強に遡り復習しようと思っても、宿題に追われ、自分のすべき勉強は何もできず夏休みを終えてしまうのです。
結果、宿題は誰の学力も高めません。それどころか、折角の日曜日や夏休みを台無しにしてしまいます。
少なくとも宿題を出すのなら、各自の学力に合わせ個別に出題すべきです。
私のこの意見をある小学校教諭にぶつけたところ「個別の宿題など平等ではない」と応えてくれました。この教諭の平等観は明らかに全ての子供が等しい能力を具えていることを前提にしています。

私は個人差があって当たり前と考えます。それどころか、学習指導は個人差から出発すべきと確信しています。

その4

もう一点、教科書程度の学習など簡単にこなせる子供にとっても、やはり同学年一律授業は気の毒といわざるを得ません。
「ゆとり教育」のように教科書のレベルを下げ、落ちこぼれを救おうとしても、それでも救えない子供はいますし、簡単すぎて物足らない子供は益々増えるばかりなのです。
そのため義務教育の段階で公立離れが起こり、所得にゆとりのある家庭の子女が私立に流れるという世の中になってしまったことは皆様ご存知の通りです。
教科書をどのレベルに設定しても、全員に適応することなどあり得ないことに早く気付くべきでしょう。あらゆる業界において、ユーザーに対しターゲットを絞りこみ、専門化して対応する努力がなされている中、学校教育は明治時代の学制以来、教科書に頼った同学年一律授業から未だ脱することができないのです。

③ 学習塾の功と罪

同学年一律授業の弊害を補うために現れたのが学習塾なのでしょう。
ただし、塾にも弊害はあり有効に機能していない場合があるのです。

その1

俗に云う進学塾では学校では教えない高度な問題を教えています。受験に出るという理由からです。
多くの保護者はより高いレベルの学校へ進学してもらいたいという願望から、子供にチャレンジさせます。しかし、それが必ずしも子に適応したカリキュラムとは限らないのです。
子供に適応しない授業内容とわかっていても塾は行わざるを得ない事情があるのです。
これは、私の学生時代に起きた実話です。
当時、これができれば有名私立中学に入れると定評のあるテキストが流行を極めていました。
私はこのテキストに準拠した授業を行う進学教室の教員をしていました。
このテキストはどの単元も難問で、学力上位クラスの中でも十分適応できる子はそのうちの半数もいませんでした。個々の生徒にはもっと時間をかけるか、もう少し前の段階からやり直した方がよいと思われましたが、進行が年間レベルで定められていて許されないのです。
驚くべきことに、テキスト準拠の授業についていくために、家庭教師や別の塾へも通う生徒もいたのです。
ある六年生の女の子が母親の出身校である私立中学を志望していました。しかし、その学校は受験熱の高まりにより、母親が入った頃と比べものにならないほど難関校になっていました。
そして、娘は学力が伴わず、とても合格できる見通しはなかったのです。
母親は鼻息も荒く絶対合格を求めます。子は必死に親の期待に応えようとしましたが、不安で仕方がありません。
私は塾長に、現実を母親に説明して、彼女に適応する勉強をさせるように上申しました。
すると塾長は、そのようなことを言ったら塾をやめてしまうだろう。もっと難問の宿題を多く出しなさいと言うのです。
なぜ難問の宿題を増やすのか。当然のことながら彼女に出来るわけがありません。塾長はそれでよいと言うのです。その程度の宿題をやってこないようならば合格できませんよと逆襲すれば、不合格の責任は回避されると言うのです。
私事ではありますが、私は悩んだ末退職しました。出来ないであろう宿題を深夜まで取り組まされる少女の気持を察すると、当時まだ青い私には他に術が見つかりませんでした。

その2

中学生が部活を終え帰宅する時間は、近所の公立中学で6:30頃でしょう。それから食事をして塾に行くのは体力的に過酷です。家族一緒の食事もままならないでしょう。二重に学校に通わなければならない現状は、矛盾のしわ寄せを子供に背負わせているように思いませんか。

その3

塾に通う子と通わない子では学力が違ってくることは確かなようです。
しかし、塾には授業料が必要です。塾の中には高額所得者の子女しか相手にしない塾まであります。
東大が最も高額所得者の子女が多い大学だそうですが、そこまで行くのに如何にお金がかかったかを物語っています。
こうした格差社会を反映した教育環境は、はたして我々の望む日本の姿なのでしょうか。私の答えは断固NO.であります。少なくとも教育は等しく子供に機会を与えるべきです。

第2章 これからの学習指導

① 個人別カリキュラムの薦め

義務教育の段階での、学力差はどの程度のものなのでしょうか。
5年生で掛け算と足し算の概念が区別できない子もいます。分数の掛け算をわざわざ通分してから掛け算をする6年生などは、公立小学校で1クラスに数人いるのではないでしょうか。
公立の中学3年生は半分以上の生徒が英語の教科書を読んで訳して書くことができません。
中3でありながら中2の英語の教科書を読んで訳して書くことができない生徒など驚くべき割合と思われます。
但しこの場合、教科書の内容が難しく理解できる限界を超えている、つまり教えても理解不可能というわけではないのです。ほとんどの子供はいずれかの時点、何らかの理由で授業に置いて行かれたがために学習がストップしてしまっただけなのです。
従って、適正な学力段階からやり直せば容易に暗がりから脱することができます。しかし、協調に偏った教育機関では個人の為のカリキュラムはないのです。謂わば、教室に座っているだけの授業を続けるだけなのです。
教えれば延びる生徒に対し、既に教えたはずだという理由で、放置しておくことは、本人の人生にとってどれほどの損失になるのでしょうか。

かたや、中学入学時点で中学3年間の数学を理解できる子もいます。オイラーの多面体の定理程度なら教わる前に自力で発見してしまう子、三平方の定理を教えた段階で三角関数の存在を想定できる中学生も珍しくありません。このような子を教科書レベルに止まらせておくことはグローバルな観点からすれば社会の損失といえましょう。
勉強が苦手と思い込んでいる子であれ、俗にいう優等生であれ、同学年一律授業の下での義務教育の9年間、個人に適応している授業時間がどれほどあるものなのか。人によっては1割もないでしょう。
公立の学校でも学力別クラス編成を導入しているところもあります。しかし、成績別に2・3のクラスに分けたとしても、そのクラスの中での学力差は依然として大きいのです。ましてや、一律の教科書に頼っている現状では慰め事にしか過ぎないでしょう。もっと徹底した発想の転換、改革が望まれます。

私の提唱する学習指導の目的は、個人の能力をできる限り活性化することです。そのために個別にカリキュラムを組み、一人ひとりが一つひとつ自分の課題を消化していくことです。
それは自分を見つめる行為でもあり、人生を切り拓く契機ともなるのです。大切なことは、他人との比較ではなく、自分の人生を歩む姿勢なのです。

② 学習コーディネーターの薦め

私の描く教育未来像をお話ししましょう。
日本の社会が今後とも健全であれば、きっと近未来には実現すると信じています。
まず、教育機関に学習コーディネーター、教員、検定官の三種の仕事を設けます。
この内、コーディネーターと教員は兼任が可能です。子供と密接な役となります。
検定官は個々の子供と距離を保った位置にいて、客観的に学力を評価する役目です。現代の仕事でいえば、英検や漢検、センター試験のような仕事に近いでしょう。従って教員が兼ねることは避けるべきです。
まず、学習コーディネーターは担当する子供一人ひとりの学力を把握します。そして基本的に年齢に関係なく、学力に応じた学習カリキュラムを立案します。これに基づき教員が一人或いは同学力の生徒数人を指導します。理解する速度に個人差が生じれば、各単元の基礎がわかるまでは個人的に時間をかけて指導をします。
学習カリキュラムは柔軟に変更できるようにした方が望ましいでしょう。
一日の授業の復習にコーディネーターが付き添えば、子供の学力把握に頗る役に立ちますし、更に教員へのアドバイスができるでしょう。子供も無理なく学力がつきます。
個別化する必要のない学科は皆で協調していけばよいでしょう。
定期的に検定を受ければ、励みになるでしょうし、保護者からの理解も得られることでしょう。
これで、教室に座っているだけの生徒はいなくなり、学校・塾の二重構造は解消されます。勿論「落ちこぼれ」などあり得ません。10代にして数学や物理に才を見せる子供が現れても少しも不思議ではありません。
私の予想では、この方法が完成すれば、午前中の授業だけで現行の学力は達成されます。
午後の時間は更に勉強に費やしても、今以上にスポーツ・芸術などに費やす時間が確保できるはずです。
一日の充実感が比べ物にならないほど濃くなります。

③ プチ・エリート教育

学習指導について長々と述べましたか、教育は学習指導だけではないことは承知しているつもりです。
そもそも、志の乏しい、遊び心のない学業など何の価値があるのでしょうか。
ここで私は誤解されやすい「エリート」という言葉をあえて持ち出したいと思います。本来エリートとは社会や国家に対して使命感を持った優秀な人材をいうのでしょうが、現在は優越感を表す言葉として嫌味を含んだネガティブな使われ方をしているように思います。「あの人はエリート意識が強い」といった具合です。
私はエリートという言葉を本来の意味を回復させたいと願っています。
私のいうエリート像はプチ・エリートであり、半世紀前のオピニオンリーダーでもなく、特定職業でもなく、勿論出身大学でもありません。
誰しもが世の中を支える一員として自覚と誇りを持つ人材なのです。
子供たちは能力を活性化し、将来自分に合う職種を選び、仕事に誇りを持ち、社会貢献を目指す、そんな意識をもったプチ・エリートを育てるのです。資源の乏しい地震大国の日本をこれからも支えていくのは、庶民の教育水準、即ち学力と志の高さに他ならないからです。

④ 勉強とは何か

勉強=遊び ≠娯楽
学問は遊びのひとつです。これが私の学問観です。但し、娯楽ではない。遊びは創造的で魂を揺さぶり、真実を実感し、人を成長させてくれます。おそらくスポーツも同様なのでしょう。それに対し、娯楽は慰め事に過ぎません。
しかし、現代の大勢は私の意見と異なるようです。勉強≠ 遊び=娯楽のようです。「遊んでばかりいないで勉強しなさい」というお馴染みのセリフは何よりもこの事情を物語っています。
スポーツも楽しい練習ばかりではない、ランニングや筋トレ、食事制限など苦痛を伴う鍛錬があるように、勉強にも反復練習・暗記など苦痛を伴う要素があることは確かでしょう。しかし、勉強は苦痛など問題にならない、面白く充実した世界との出会いを保証してくれます。

勉強する意義は実に計り知れないものがあります。
勉強は、未知の世界との出会いがあります。真実を知る感動があります。
さらに、職業訓練としての意味があります。集中して計算をする。多彩な情報をノートにまとめる。
難問に対してもあきらめず工夫して対処する。人を納得させる論法を覚える。まさに将来役に立つことばかりです。さらに、進学・就職の選択を広げる条件となることはいうまでもありません。

ただし、勉強の仕方を間違えると、能力の活性化は止まり、勉強に嫌悪感を覚えるようになってしまいます。
こうした若者の多くは、自分の学力に適さない勉強を義務的に強いられている場合が多いようです。
人はそれぞれに能力の限界、即ち器があります。
私が幼い頃から毎日野球をやってもプロ野球選手にはなれなかったでしょう。プロを目指して誰よりも練習すれば、虚弱な私の体はぼろぼろになっていたはずです。私がやるべきスポーツは別にあるのです。
人にはそれぞれに適った仕事をすべきです。その中で、それ以上でもそれ以下でもない評価を受けることが幸せの一つの条件ではないでしょうか。

スポーツ音痴の若者よ。
君にぴったりのスポーツは必ずあるよ。健康の為に探してみないか。
勉強嫌いの若者よ。
もう一度やり直してみないか。君には君の勉強があるはずさ。
安心しろよ。君達を理解してくれる指導者はきっといるはずだから。
勉強得意な若者よ。
若いうちに磨くべき感性は無数にあるぞ。ヒントをあげよう。君がこれからやるべき勉強は、大人から出された問いに対し、大人が期待する正解を出すことではないぞ。
真に優秀な若者とは「今、何が問題なのか」自分で問題点を提起し解答を導き出す者のことなのだよ。

ここでいう優秀な若者は今とても育ちにくい教育環境にいるのかもしれません。
彼らは点数主義の中に埋もれ、評価されにくい。点数の部分だけが評価の対象となり、それ以上の豊かな発想力、才能は認められにくいのです。それは指導者の質、評価基準の貧困さに原因があるのです。

現在、残念ながら勉強を教える指導者が学問の面白さを知らず、単にテストの点数をとる技術として勉強を教えていることが多いようです。受験勉強しか知らない教員は受験勉強しか教えられません。
さらに問題なのは、そうした教員を良しとする受験効率主義的風潮が世の中に蔓延していることです。受験が勉強の目的になっているのでしょう。この種の勉強は面白くないし、やがて行き詰ってしまいます。遊び心こそ勉強の真髄なのかもしれません。
子供には輝かしい将来に向かって有意義な学習をしてもらいたいと願う次第です。

付録  空想 未来の学校

僕は未来の少年、空男、12歳です。皆さんの時代ですと小学校6年生に当ります。
今日は僕達の学校をご案内しましょう。
この学校は11歳から15歳までの生徒が通っています。
11歳の子は毎月5日間、12歳の子は毎月7日間、13歳以上は毎月2週間、学園敷地内の寮で生活しています。残りの日は自宅から通います。

朝6:30起床

ラジオ体操の後、朝食ですが、僕は今日食事当番なので体操しないで配膳しました。
テキパキ働かないと皆に迷惑をかけてしまいますので、前日の夜、上級生の当番のお兄さん達と打ち合わせをしました。
食後は後片付けがありますが、洗濯係の人達も大変そうでした。

学校の先生は学習コーディネーターの先生、各教科の先生、寮の生活指導の先生、それに部活の先生です。
学校は施設内の学校に行きますが、授業は午前中で終わります。まず学習コーディネーターの先生の指示通り個別かグループの授業を受けます。
昼休みが終わり、1:30からは自主勉強の時間です。一日習ったことを復習します。コーディネーターの先生が見守ってくれますので、質問も出来ます。
3:30からは部活が毎日あります。僕は月・水曜日は英会話、火・木にサッカーB、金は美術部です。
サッカー部はA級とB級があり、A級は本格的なサッカーをしたい人の中から選ばれます。
専門のコーチがいて週4日から7日練習しています。
B級は健康のために運動したい人のクラブです。B級でも規律は厳しく、専門のコーチが基本をしっかり指導してくれますので、充実した練習ができます。
各教科、検定試験が半年ごとにあります。10級から始まり10段まであります。僕は英語4級、算数は3級です。3級は皆さんの時代ですと中学一年の内容が全て理解できているレベルだそうです。
僕と同室の未来君は既に数学1級を合格しました。将来は理系の大学に行きたいそうです。
大学受験は大学が設定した級或いは段をクリア出来れば受験資格が与えられ、大学独自の試験を受けて合否が決まります。試験は学力診断ではなく、その人の発想の豊かさを試す試験が中心です。

寮生活を終え、家に帰ると母は好物のすき焼きを用意してくれます。寮生活のよさは家庭のありがた味が分かることです。母も僕が帰ると家の中がよく片付くと、寮生活で身に付けた整理整頓を褒めてくれます。
皆さんは今の学校と未来の学校、とどちらの学校に通いたいですか。​