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“阿修羅考”

阿修羅考

映画『太陽がいっぱい』『ティファニーで朝食を』には共通点があるようです。

資産家の友人を殺害し当人になりすます陰気な男、愛など信じない娼婦というダーティーな主人公を、アラン=ドロン、オードリー=ヘップバーンという世紀の美形が演じることにより原作を離れ、罪がおぞましくも、悪が憎らしくもならない、感触の良い作品に仕立てられているのです。

悪行・愚行をこのように美しく演じることができるのは、そもそもこの世の善と悪はさほどかけ離れてはいないことを物語っているのではないでしょうか。

インド神話に登場する阿修羅(Asura)は、干ばつをもたらす太陽神・好戦的な神として悪名を轟かせています。わけても帝釈天との戦いは「修羅場」という言葉を生むほど凄まじいものでした。六道のひとつ「修羅道」(争いの絶えない世界)も同根からの名称です。

興味深いことに、悪神であるはずの阿修羅は地域によっては恵みをもたらす太陽神であり、仏に帰依しては仏法を護る天部にも加えられ、必ずしも悪を貫いているわけではありません。

善悪の曖昧な神は阿修羅に限らず訶梨帝母[かりていも]など数例知るところです。
訶梨帝母(=鬼子母神)は子供を守る母性の神格ですが、その起源は産んだ我が子を次々と食ってしまう恐ろしい鬼神なのです。
訶梨帝母のこの二面性に母性の本質があると指摘したのは、ユング心理学者の河合隼雄氏でした。

氏によれば母性は子育ての根幹となる愛情ですが、世話をやき過ぎると子は自分でできることすら行う機会を失います。そうした過保護は子の自立を妨げ、手足をもぎ食ってしまうに等しいというのです。

阿修羅は怒りを神格化した神です。怒りは暴力につながりやすく、阿修羅が悪神に属することは誰しもが納得するところでしょう。
しかし、怒りは新しい時代を創造する契機になることもあるようです。

1789年フランス市民によるバスチーユ牢獄襲撃事件は暴動と非難すべきなのか、市民革命と賞賛すべきなのか。第二次世界大戦中、ナチス占領下のヨーロッパでの市民の抵抗運動はテロリストと非難すべきなのか、レジスタンスと英雄視すべきなのか。今となっては、答えは明らかでしょう。このほか、圧政に対する民衆の怒りが社会変革の契機となった例は数えるに暇がありません。怒りなくして歴史は動かないと云えば云い過ぎになるのでしょうか。

アジアの神話に登場する悪神は決して滅ぼすべきものではありません。悪とは体制に属さない身分・無尽蔵の活力を意味し、社会に害ともなれば益をももたらすのです。
子を食う鬼神 訶梨帝母・怒りの神 阿修羅が善神にもなりえる理由がここにあります。

どうやら善と悪は対義語でありながら、交錯しやすい性質のようです。両者はそれほどかけ離れた存在ではないからこそ、人は常に反省と修正を繰り返す必要があるのでしょう。一休宗純の筆でおなじみの「諸悪莫作 衆善奉行」(しょあくまくさ しゅうぜんぶぎょう)という禅語は「悪いことはしてはいけない 善いことをしなさい」という意味ですが、簡単なようでなかなか難しいことのようです。

天平六年(734)聖武天皇の后・光明皇后は実母である橘三千代(藤原不比等夫人)の一周忌に興福寺西金堂を建立しました。
西金堂の本尊は釈迦如来坐像、その周りには脇侍菩薩像、釈迦十大弟子像、梵天・帝釈天像、四天王像、八部神王像(以下、八部衆という)などを配し浄土変相を構成していました。残念ながら西金堂は現存していません。

かの有名な興福寺の阿修羅像はこの八部衆の一躯です。

http://ww81.tiki.ne.jp/~morikawaakir/newpage121.htm

古代の仏像のほとんどが作者不詳である中、この堂の諸仏は仏師将軍万福の指導により造られたことがわかっています。(『正倉院文書』造佛所作物帳)
今は失われた西金堂の様を知るには鎌倉時代に描かれた<興福寺曼荼羅>の西金堂の図が参考になるでしょう。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/butsuga/item04j.html

私は初めてこの図を見たとき、極めて優秀な十大弟子と、善神とは言い難い八部衆との組み合わせが不可解でなりませんでした。しかも阿修羅の宿敵帝釈天も一団の中に加わっているのです。西金堂より古い法隆寺金堂壁画の釈迦浄土変相図には八部衆は描かれていません。阿修羅など八部衆を加えた興福寺西金堂は何を意味しているのでしょうか。

興福寺諸堂は歴史の荒波の中で過酷な運命をたどります。
建立から三世紀半、度重なる火災の中でも最も大きな試練が興福寺を襲います。

平安時代も末期の治承四年(1180)十一月二八日、反平家勢力であった東大寺・興福寺は平重衡の焼き討ちにあい伽藍のほとんどを失ってしまいました。興福寺西金堂も例外ではありません。軽量な乾漆像であることも幸いしたのでしょうか、本尊を焼失しながらも十大弟子の内6躯と八部衆は戦火の中を運び出されて現存しています。

興福寺 阿修羅像は純心潔癖な美少年の容姿をしています。
三面の表情には阿修羅の本質である怒りなど微塵も感じられず、穏やかながら何か決意を秘めた表情のように見えます。己の活力を仏法に捧げようと決意した刹那なのでしょうか。
十大弟子はいずれも肘を張らずに脇をしめた立ち姿をしています。

http://www.kohfukuji.com/

これは本尊の周りの限られた空間に数多くの像を配置するためで、浄土変相図的群像表現といえましょう。
それに対し、阿修羅像は六臂(ろっぴ=六本の腕)により大きな空間を構成しています。居並ぶ群像の後方にいて印象的であったことでしょう。

合掌する二臂を除いて、残りの四臂には当初持物があったはずです。二臂で日月を上段に掲げ、中段の二臂で弓矢を持つのが阿修羅の図像です。太陽神・好戦的神という彼の経歴を物語っています。

奈良時代の仏像は前期の作例ほど若々しく、後期に至るに従って壮年の風貌となっていきます。東大寺法華堂諸仏の壮年の顔立ちと比べると、若々しい興福寺像との時代の差は一目瞭然です。

天平仏の美しさは普遍的理想美といわれています。普遍的理想美とは、当時の人々が共有できる共同体的美意識を意味します。価値観の多様化した現代では考えられないことです。
地方分権・民営化を目指す現代とは逆に、当時はゆるぎない中央集権国家の完成を理想としていました。

この世に混沌と存在するあらゆるものを国家秩序の下に再編しようとする政治的理想は、悪神すら仏法の秩序の下に取込もうとする宗教的理想と同質のものです。

このような時代感覚を古代網羅主義というほか適する言葉を私は知りません。

碁盤の目状に張り巡らした条理制都市計画も、東大寺を本山とし全国に国分寺を建立した国家鎮護仏教も、春秋・山川・朝夕などを対に捉えシンメトリックな世界を詠みあげた赤人の歌も、あらゆる地域・階層の歌を網羅した『万葉集』の編纂も全て共通した感覚といえましょう。弾圧の対象であった行基の力をも結集し大仏建立に当たらせた聖武天皇の政策は、悪神阿修羅をも釈迦の傍らに置いた興福寺西金堂から想を得たのかもしれません。

折々の銘〈阿修羅より〉改定

興福寺西金堂諸像の配置について

山部赤人『万葉集』巻六923-5
やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は
たたなづく 青垣隠り 川なみの 清き河内ぞ
春へは花 咲きををり 秋されば 霧立ちわたる
その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく
ももしきの大宮人は 常に通はむ

反歌二首
み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

叙景歌を得意とする赤人は、混沌とした自然を一定の秩序の下に構成し、合理的な歌の空間を作り上げています。この歌も、左記のように「山」と「川」、「春」と「秋」が対となって構成され、反歌一首目が「山」で二首目が「夜」「川」を詠んでいるため、一首目が「朝」の景であることが暗示されているのです。

たたなづく 青垣隠り
川なみの 清き河内ぞ
春へは花 咲きををり
秋されば 霧立ちわたる
その山の いやしくしくに
この川の 絶ゆることなく
み吉野の象山の際の木末には
ここだも騒く鳥の声かも
(朝)
ぬばたまの夜の更けゆけば
久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

 

こうした赤人の合理的な空間構成は、自然と人間の新たな関係をしめすものであり、全国に国司を派遣し統括する中央集権国家体制、全国に国分寺国分尼寺を配し本山を東大寺とする国家仏教体制、条里制の合理的な都市計画などと無縁ではありません。当時の支配者層・知識層に見られる時代感覚と云えましょう。このように、世界をシンメトリーに、あらゆるものを見えるものとして網羅する感覚を古代網羅主義とよぶことにしましょう。

興福寺西金堂は天平六年(734) 聖武天皇の后、光明皇后は実母である橘三千代(藤原不比等夫人)の一周忌に建立されました。
幾度となく火災に見舞われ、既に堂は現存せず本尊も失っているが、幸いにも堂内諸像の十数躯が苦難の時代を経て現存しています。
堂内は釈迦如来坐像の周りを脇侍二躯、十大弟子、八部衆、梵天、帝釈天、など多くの諸像がとり巻く浄土変相の躰をなしていたと思われます。
創建当初の様は「興福寺曼荼羅」が想像を助けてくれます。
この内、十大弟子は六躯が現存し、八部衆は五部浄は下半身が失われているものの八躯全てが現存しています。
これら諸像はいずれも童顔でありながら、その豊かな表情には各像に微妙な変化が認められます。
以下、本試論は西金堂の釈迦浄土変相諸像の構成に何らかの秩序がありはしないか、わけても先に述べた古代網羅主義的表現が認められないか検討するものであります。

まず八部衆は正面を向いた像と左を向いた像とに分けることができます。(左右とは像自身、本尊から見ての左右で、向かって右左ではありません)
沙羯羅・迦楼羅・緊那羅が左を向いています。
これら四躯の像は左向きであるがゆえ、本尊の右に位置していたことがわかります。
現存する旧西金堂諸像は表情が豊かであり各像の個性をも表現しようとしています。各像の表情、年齢の差異も何らかの秩序に根差した表現を目指したものと推察されます。
その手掛かりとして、八部衆を陰陽に分類してみましょう。
ただし、表情からの判断は実証性に欠ける恐れがあり、できるだけアトリビュートから判断したいとおもいます。
迦楼羅は空を丸く飛ぶ鳥として陽に加えました。沙羯羅は頭部の蛇が陰を示します。緊那羅の一角は男性を象徴し陽、五部浄は愁いある表情から陰、乾闥婆は閉じる眼から陰、鳩槃荼は激昂する表情から陽、畢婆迦羅は髭が男性を象徴するところから陽、阿修羅の表情の愁いは特に左右の面が顕著に表れ陰に分類しました。
年齢を仮に少年、青年、壮年に分類すれば沙羯羅・五部浄が少年、阿修羅・乾闥婆が青年、緊那羅・畢婆迦羅が壮年となるでしょう。迦楼羅・鳩槃荼は異形のため年齢の判断は困難です。

以上を根拠に「興福寺曼荼羅」のごとく本尊の左右に五躯ずつ配置するものとすると表一のようになります。正面向きの阿修羅が右側としたのは「興福寺曼荼羅」の右側後方にそれらしき像が確認できるからです。
表一に見るように、これら分類尺度が矛盾なくシンメトリーを保ち配置されていた様子がうかがわれます。

「興福寺曼荼羅」西金堂の図には本尊釈迦如来坐像を中心に諸像の姿が確認できますが、各像の名称を特定するには図が小さく困難です。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/butsuga/item04j.html ⇒京都国立博物館HP(興福寺曼荼羅西金堂の部分)
わずかに、本尊後方右の二躯が異形であるため、右から(外側から)迦楼羅・阿修羅であることが確認できます。阿修羅のように横幅を占める像は後方に位置するのが相応しく、この図の信憑性の高さを示すものと思われます。本尊の右側には前方に沙羯羅らしき像が描かれています。とすれば沙羯羅の後方の天部像は左を向く緊那羅以外にあり得ません。​

表1 八部衆

  像名 別像名 保存 向き 陰陽 年齢 位置 備考
1 沙羯羅 龍衆 摩睺羅迦 蛇・龍王
2 阿修羅 阿修羅衆 憂い
3 迦楼羅 迦楼羅衆
4 緊那羅 緊那羅衆 一角
5 五部浄 天衆 優鉢羅竜王 胸頭部 憂い
6 乾闥婆 乾闥婆衆 閉じる眼・音楽香
7 鳩槃荼 夜叉衆 激昂・鬼
8 畢婆迦羅 摩睺羅伽衆 髭・音楽・馬

 

同様の方法で十大弟子も配置がなされていたはずであるが、残念なことに十躯のうち四躯が失われているため、八部衆のように配列を推察するのは困難です。「興福寺曼荼羅」には十大弟子とは別にもう一躯童子形の羅睺羅が本尊の右手前に見られます。さらに現在羅睺羅とよばれている像は目を閉じており、盲目の阿那律ではないかという説があり、配置を特定するには容易ではありません。今しばらく時間をかけ検討させて下さい。

つづく

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