長谷川等伯と堺の町衆

はじめに

近代芸術至上主義の洗礼を良きにつけ悪しきにつけ受入れたディレッタントにとって最大の関心事は作品の芸術的内容、次いで作家の系譜・伝記であり、作家の才能を見抜き、彼らを世に登場させたパトロンへの関心は希薄になりがちである。思えば芸術家を適材適所に使いこなす彼らの活動もまた創造的であり、社会に芸術を存在たらしめる重役を担っている。

画業を職とする者にとって、己の才能を認め活躍の場を与えてくれる人物と出会うことは、この上もない幸運といえよう。
桃山時代、能登の絵師長谷川等伯は、狩野派が画壇に君臨する京に上り、華々しい活躍を見せた。これは彼の才能や旺盛な研究心もさることながら、時には勉強の場を、時には活躍の場を与えてくれた人々との交流があればこそ可能な偉業である。

わけても、日通上人、千利休、津田宗及との交流は、単に発注者、受注者の関係にとどまらず、彼の芸術観を飛躍させるに大きな役割を果たしている。
以下、等伯の画業の展開を人物の交流に照らして追っていきたい。

能登の等伯

昭和三十九年に発表された土居次義氏の『長谷川等伯・信春同人説』ほど、等伯の研究を飛躍的に発展させた先学はなかろう。従来、信春なる絵師は等伯の息子久蔵と同一人物と考えられていたが、信春筆「日堯上人像」の款記を史料に信春と等伯が同一人物であることを突き止め、作品の上の共通性を指摘し、今日定説となっている。

長谷川等伯(信春)は天文八年(1539)能登七尾に生まれる。七尾城主畠山家家臣奥村を名のる武家の生まれであるが、染物を営む長谷川家の養子となる。町家が武家から養子をもらい身分の尊貴を図ることは当時珍しいことではなかったようだ。

等伯は自ら法華信徒であり絵仏師的性格の強い絵師として能登で画業の第一歩を歩んだ。
現在、石川県七尾市には実相寺「日蓮上人像」(二十七歳の作)、龍門寺「達磨図」、霊泉寺「十六羅漢図」、羽咋市には正覚院「十二天図」(二十六歳の作)、妙成寺「仏涅槃図」(三十歳の作)、「日乗上人像」がある。

また、富山県高岡市の大法寺には「日蓮上人像」、「釈迦多宝仏図」、「鬼子母神図」、「毘沙門天図」、「十羅刹女図」(以上二十六歳の作)、「三十番神図」(二十八歳の作)がある。

若き日の等伯、すなわち信春の作品は法華宗に関係するものが多い。しかし、信春の印を持つ作品には他にも風俗画、花鳥画が伝えられ、当初からこうした多様な画題をこなしていたことは注目に値する。
等伯は生涯に仏画、肖像画、風俗画、それに水墨画や金碧障屏画など、大和絵から漢画に至るまでの画題をこなしている。こうした幅の広さは一代の絵師としては希な才能であり、職業画人として成功した一つの要因といえる。

等伯上京

元亀二年(1571)養父の死を契機に等伯は上京を決意する。等伯三十三歳のときである。

七尾の菩提寺本延寺が京の本法寺の末寺であることを縁に、等伯は本法寺塔頭教行院を活動の拠点とする。
上京した等伯は翌元亀三年(1572)本法寺第八世「日堯上人像」を描いている。この図の款記には「信春」の号があり、京の妙覚寺の「花鳥図」も「信春」の印を捺されているところから、上京後もしばらくは信春を名乗り、後に等伯と号したものと思われる。残念ながら三十代後半から四十代の制作年代の明らかな作品は現存しておらず、この間の詳しい活動はわかっていない。

この頃、等伯は本法寺で重要な人物に出会う。本法寺第十世日通上人である。彼こそ京に基盤のない等伯に幅広い人脈を築かせた基となる人なのだ。
日通上人は天文二十年(1551)油屋常金の子、油屋常鴎の孫として堺に生まれ、天正十四年(1586)本法寺の住職となる。堺の油屋といえば「油屋肩衝」「油屋釜」「曜変天目」「灰被天目」「青磁柑子口花入」などを所持し、信長、家康などの権力者とも交わりを持った一族である。

日通上人は日堯上人の弟弟子であり、師は堺の妙国寺日晄上人である。この日晄上人は一族の中心人物と思われる油屋常言の次男、油屋常祐の弟である。ちなみに妙国寺も常言が建てた寺である。

『天王寺屋会記』にも一族の名が見え、日通上人の育った環境には茶の湯があり、堺の町衆との交流があったことは容易に想像できる。

等伯が堺に足繁く通った様子は『画説 長谷川等伯物語記之』、通称『等伯画説』に詳しい。『等伯画説』は日通上人が等伯と交わした談話を記したもので、等伯研究の一級史料である。その中の多くは等伯の宋元画の鑑賞体験談で、「馬麟ガすゞめ子ノ絵トテ堺ニアリ」「梁階ガ鷺ノ絵トテ堺ニ有之」「魚夫せん子画事。せん子ハ堺宗及ニ有之」、という記載が見られ、『天王寺屋会記』記載の玉澗筆「波ノ絵」(永禄十三年十一月十六日 宗久自会記)、梁階筆「鷺ノ絵」(永禄四年九月二十三日 宗好の会)と思われる絵も『等伯画説』に記されていることから、等伯は日通上人を通じて堺で人脈を築き、多くの宋元画に接し勉強したと思われる。

『等伯画説』に登場する宋元の画家は徽宗、牧谿、玉澗、梁階、馬麟、禅月、王維、夏珪、顔輝、因陀羅、徐煕など列挙に暇がない。また、阿弥派など日本の絵師の名もあがり、自らを雪舟(1420~1506)の弟子の等春(生没年不詳)の流れを汲む絵師と称している。

『等伯画説』によれば、等春は雪舟に従い加賀の富樫氏の元に三年滞在、その間能登の畠山氏の元へも赴き等伯の父宗清の師となったということである。

等伯の油が乗り切った五十代以降の作品がいかに宋元画の影響を受けているかは、彼の作品を見れば誰の目にも明らかであろう。しかしその影響は、単に宋元画を粉本として図像の描き方を真似るにとどまるものではなく、深く造形用語を養い、彼の画業に潤いを与えるものであった。

『等伯画説』には「梁階ハ上夫で也。天下一ノ人形書也。(略)但農人ナドノヒエタル躰、スキ也。」と記すなど宋元画に率直な感想を述べている。また、「少弱キ」「しづかな絵」「いそがわしき絵」などの評価は『天王寺屋会記』にも見られ、津田宗及との交流が宋元画を通じて深かったことを想像させる。

堺における等伯の活動を察すると、堺の町の文化的活力が感じられる。

因みに、利休の好む茶掛が墨跡であるのに対し、茶会記を見る限り宗及の蔵には宋元画が多かったようだ。

等伯、利休と大徳寺

『等伯画説』に「是ノ牡丹ノ絵、舜挙也ト伝ヘリ。」とあるのは大徳寺高桐院蔵舜挙筆「牡丹図」と思われ、「紫野ノ竜源院ノ方丈、等春筆也。」という記載と合わせて、等伯が盛んに大徳寺へも出入りし勉強していたことが史料の上からもうかがえる。

天正十七年(1589)千利休が施主となった大徳寺三門金毛閣増築の際、等伯は天井画や柱絵を描いている。等伯五十一歳の時である。

想像をたくましくすれば、例の金毛閣の「利休木像」の彩色も等伯によるものであったかもしれない。ちなみに、等伯はかつて能登本延寺で木彫の「日蓮上人像」の彩色を手掛けたことがある。金毛閣を担当する絵師の人選は施主たる利休の意向が働いていると思われるが、利休が狩野派を使わず、等伯を抜擢したことは注目すべきことである。利休の感性には、信長好みの永徳の筆勢は威圧的で合わなかったのかもしれない。

思えば利休は長次郎や盛阿弥など、職方の抜擢に優れた能力が認められる。茶道具の範疇に外れるが、等伯の場合も利休の指導によって育てられた職方の一例に加えることができよう。

等伯と大徳寺との結び付きには、複数の人物の働きがあったかもしれないが、特に利休の力が大きかったとは間違いないだろう。
金毛閣天井画を描いたこの年、等伯は大徳寺三玄院の客殿にも襖絵を描いている。(現在円徳院、楽家蔵)おそらく等伯と三玄院の春屋宗園を近づけたのも両者と親交が深かった利休の計いであろう。ちなみに、不審庵の等伯筆「利休居士像」の賛者は春屋であり、等伯筆「春屋宗園像」も現存する。

大徳寺にある等伯の襖絵はこの他真珠庵に見られる。同塔頭に襖絵を残す曽我蛇足の影響が強い。接する名画をことごとく消化していく等伯の逞しさがうかがえる。
大徳寺には多数の宋元画の秀作があるが、中でも牧谿の「観音猿鶴図」は白眉といえよう。この内のいわゆる牧谿猿を等伯は好んで描いており、現在竜泉庵、相国寺、金地院などに現存している。また、等伯筆と思われる「竹鶴図」も伝わっている。これらは、牧谿の十分な鑑賞体験なしに描けるはずはなく、春屋の配慮により大徳寺の宋元画を学んだ成果と思われる。五十代以降の等伯の画業の中心は法華宗寺院より禅宗寺院へと移ったといっても過言ではない。

ここで等伯筆と思われる利休の肖像画二幅について触れておきたい。一幅は不審庵蔵で春屋宗園の賛に文禄四年(1595)十月二十四日の年記があり、死後五年の遺像である。制作依頼者は田中宗慶であり、等伯五十七歳に当たる。もう一幅は正木美術館蔵で古渓宗陳の賛で天正十一年(1583)八月の年記がある。この年、利休は六十一歳、等伯は四十五歳である。
この時代、肖像画とは鎌倉時代に流行した似絵を源とする大和絵系の肖像画と、室町時代、高僧を描いた頂相像との融合した絵画分野で、等伯は当時最も優れた肖像画家でもあった。利休という人物をよく知る等伯にとってまさに適役の仕事であったろう。

この内、正木本には賛の筆跡や言葉に対し疑問の声がないわけではない。しかし、等伯の筆と思える特徴は随所にあり、等伯真筆を否定するだけの決定的な根拠には至っていない。
私は制作の動機に対して新たな疑問をつけ加えたい。一般に肖像画とは、偉人や身内の死後、故人を偲ぶ崇拝・追善の念により制作されるものである。早い場合でも死を悟った晩年に描くのが一般的である。

正木本のように、働き盛りの頃に肖像画を制作することは異例であり、しかも禁中より居士号を賜る二年前であり特にメモリアルな動機も見当らない。この点について触れる先学はおらず、まずは作品のより詳しい調査を待ちたい。

狩野派との対立

『本朝画史』には利休と等伯は共に狩野派を誹ったという記載がある。この記事から利休と等伯は何らかの芸術的同志関係があったのではないかと推測する研究者もいる。しかし、利休が狩野派を誹らなければならない理由は今のところ見当らない。ただ、等伯の身辺には思い当たる節がある。

天正十八年(1590)秀吉による仙洞御所造営の際、対屋の襖絵の受注をめぐって、等伯は当時画壇の中心的存在であった狩野派と激しく衝突することとなる。造営奉行前田玄以は等伯一門に描かせようとしたが、御用絵師狩野永徳は息子光信と弟宗秀を伴い、鞦や扇を手土産に武家伝奏の職にあった大納言晴豊に「めいわくのよしことはり申来候也」と等伯排除を直訴したのであった。結果的に、御所の襖絵は狩野派が担当することとなり、等伯の割込みは失敗に終わるが、この事件はさまざまな情況を我々に伝えてくれる。

まず、等伯が長谷川派というべき、大規模な組織を持っていたことがわかる。

この頃、等伯が五奉行の一人、前田玄以ほどの権力者に支持されていたことも注目に値する。こうした点に彼をしたたかな野心家と評することもできよう。
狩野派との対立は、法華信徒としての等伯のあり方にも変貌をうかがわせる。実は狩野家も法華信徒であり、初代正信より永徳までの墓が妙覚寺にある。妙覚寺は本法寺に次いで等伯の京における足掛かりとなった寺であり、作品も現存する。等伯と永徳には信仰を通じての共通の知人も少なくない。法華信徒であることが等伯の画業の出発点であったはずだが、この時期の彼の新たな職業意識がうかがわれる。

直訴事件のあった天正十八年(1590)永徳は四十八歳の若さで急死する。ライバルの死は等伯の画業にいかなる影響をおよぼしたのであろうか。
永徳と等伯は桃山時代を代表するのみならず、日本絵画史上卓越した絵師の二人である。「両雄並び立たず」という言葉も手伝って、二人が反目しあうことは当然と無批判に納得されがちである。

イタリア・ルネサンスの巨匠、レオナルドとミケランジェロにも似た話しはある。最近の研究によればレオナルドとミケランジェロとの不仲には後世誇張され伝えられた部分があり、むしろネオプラトニズムという共通の思想の上に作品の上での影響関係が指摘されている。

永徳と等伯の場合も受注における対立関係はあったものの、作品の内容には影響関係が指摘できる。
延宝六年(1678)成立の『本朝画史』は永徳の画風を次ぎのように述べている。

「之ヲ望メバ即チ舞鶴奔蛇ノ勢ヒニ似タリ。(略)永徳細筆ニ暇無ク、故ニ専ラ大画ヲ為ス。或イハ松梅長サ一、二丈、或イハ人物高サ三、四尺。其筆法皆粗ニシテ草、(略)墨画ハ藁筆ヲ用フ。大抵祖風有リ。頗ル新意ヲ出シテ恠恠奇奇。」

この評論の示す豪放な美意識に婆沙羅の気分を見出す方もおられよう。大画面にはみださんばかりに描く巨木は永徳の創意であり、彼を取り立てた権力者信長の好みである。
等伯が永徳の死の翌年(1591)頃から描き始めた祥雲寺の金碧画「楓図」「桜図」「松に黄蜀葵の図」「松に秋草図」(現在智積院蔵)や同時期の作品と思われる「老松図」(金地院蔵)、「松林図」(東京国立博物館蔵)などに巨木のモチーフを見ることができる。

等伯以前、能阿弥筆「三保松原図」(頴川美術館像)などに松林の絵は見られ、等伯自身三玄院襖絵において松林の絵を描いているが、それらはいずれも遠景として描かれており、近距離より画面いっぱいに描く「松林図」「老松図」は永徳の影響なくして考えられない。

もし永徳の急死がなければ等伯はこれらの巨木を描いたであろうか。いずれにしても永徳の「頗ル新意ヲ出シテ恠恠奇奇。」といわれたダイナミックな画風は息子の狩野光信、孝信よりもむしろ等伯に受け継がれたように思える。多くの絵画を勉強した等伯であるが、代表作品を残す五十歳代、最も影響を受けた絵師をあげるならば牧谿とライバル永徳といえよう。

しかし、等伯の絵画を全て牧谿や永徳の影響で説明してしまうのは誤りで、祥雲寺の障壁画や「松林図」には等伯の独創性が色濃く見うけられる。

永徳の筆勢が威圧的とも思える力強さを見せているのに対し、等伯の筆勢はやさしさ、やわらかさにあふれている。この様な筆法は、独自の感性とも同朋衆阿弥派の軟体画風を学んだ成果とも解釈できよう。また、等伯の佳作には、写実性が強く認められるのも、永徳との違いといえる。

一見抽象的、装飾的とも思える祥雲寺の障壁画には、写生し洗練された草花の形態とやわらかな筆勢に叙情性すら感じとれる。「松林図」の潤いのある大気には、牧谿に近い筆法でありながら日本の風景を思わせる写実性があり、漢画と大和絵とが融合した絵画史上特筆すべきではないだろうか。

その後の等伯

かくして能登の絵仏師から出発した等伯は、五十歳代に確たる地位を築く。
等伯の画業はさらにつづき、法橋、法眼にも叙せられ、慶長十五年(1610)七十二歳でこの世を去るまで精力的に制作に励む。
等伯晩年の画業については割愛させていただくが、彼は慶長四年(1599)自作の「仏涅槃図」を、同七年(1602)「日蓮上人御消息」を、翌八年(1603)日親上人筆「法華本尊幅」を、京での出発点となった本法寺へ寄進している。

等伯が大いなる野心家であったのか、それとも朴訥な人柄の絵師であったのか推測の域を出ない。しかし、こうした本法寺への寄進は彼の人柄をわずかに覗かせてくれる史料であるのかもしれない。

慶長十三年(1608)日通上人が寂すると、等伯はこの恩人の肖像画を描いている。等伯死の二年前、七十歳のときである。思えば日通上人がいなければ等伯はどれほどの勉強の場と人脈と仕事を得たであろうか。画業の内容も大いに変わっていたかもしれない。

死の直後の制作のためか「日通上人像」は等伯筆の肖像画の中でも特に生々しく容貌が写されている。日通上人を偲びつつ、己の人生を振り返りながらの制作ではなかったろうか。

(「桃夭」第三号1994.9/1)一部改定2011.7/1